スピリチュアルカウンセリング Shell Beans

Shell BeansのヒーリングマスターRukaがスピリチュアルの謎と魅力をご紹介。

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きょうはRukaにあった出来事を通して、乗り越えられなかった課題は
繰り返されることについてお話したいと思います。

昨日、実家からRukaが父親が取っておいた小学校からの成績表や賞状類が送られてきました。整理したら出てきたので、送ってくれたようです。なつかしそうに見ていたRukaに息子も加担して、わいわい話が弾んでいたところ、息子が突然言い出しました。「この中学校のときのお母さんの担任の先生は、僕の学校の校長先生だよ!」
 
今年から息子の中学校の校長先生が代わったことは知っていましたが、忙しくてなかなか息子の持ってくるプリントなどにも目を通す機会のなかったRukaは大変驚きました。

先生は、Rukaにとっては忘れられない先生でした。
その先生を思い出すたび、ある出来事が思い出されて苦しい思いをしていました。
Rukaにとっては、いわゆるトラウマになった出来事をもたらした先生だったのです。

中学一年の途中で、学級委員だった優秀な友達が転校してしまいました。
先生は職員室にRukaを呼んで、こういいました。
「次の学級委員に立候補しなさい。あなたは、リーダーシップが取れる人間だから。」

Rukaは即座に断りました。どうして、先生がそんなことを言うのかも理解できませんでしたし、もうすでにクラスで人気のある子が立候補をすると決まっていたからです。
自分にはそんな力があるとは思えないとおもったこと、学級委員はみんなの人望によって決まること、ほかに人気のある子が立候補する予定があること、そして、その上で立候補などしたら、自分はクラスのみんなから「身の程知らず」といわれて恥をかくのはいやだという気持ちを
正直に先生に話しました。

先生は一通り話を聞いていましたが、説得にRukaが動じないと知ると、
「もう、いい。」と一言だけ言われました。
結果的に、Rukaは立候補せず、その人気のある子が学級委員になり、
Rukaはこころのなかで、ほんとうに、ほっとしたものでした。

しかし、先生のなかですべてが終わったわけではなかったようです。
一学期は「リーダーシップのとれる人材で、将来が楽しみだ。」と、てもいい評価のコメントを
くださったのに、急に人が変わったように、2学期からは、「自分の力をセーブしていたら、将来困ることになるぞ。」「自分の人生を大切にしなさい。」等、Rukaの評価が明らかに変化しています。
ずっと忘れていましたが、成績表を30年ぶりに見て、また、悲しい気持ちになりました。

その先生が言ったことや行いを思い出してRukaを傷ついたのではありません。
この課題をいまだもって、越えていないことにRuka自身が傷ついたのです。

Rukaはこのネットでの活動のほかに、複数の団体に所属していますが、
そのいくつかで、いま、リーダーの資質とは何かを問われる課題を課せられています。

この問いは、今現在、その立場に立たされたからの課題ではなく、
遠い昔からあったこの課題を越えられなかったからゆえのめぐりめぐってきた
課題であることに気づかされました。
立場をもっての言葉を発することの重み、ある大いなる目的を達成するために、
敵を増やすことの怖さ。それに負けないゆるがない信念。
どうしたら、克服できるかは、ちまたの自己啓発の本を読んでも得られません。

いくつも失敗しながら、そして、そのなかの小さな手ごたえを頼りにしながら
自らが獲得していくものなのだとRukaは思います。

失敗することを恐れずに、こんどこそ、この課題を達成できたらと
Rukaは静かに願っています。

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みなさんは、このような図をご覧になったことがありますか?
これは、「ルビンの杯」といわれるものです。
ご覧になっている方によって、この図の見え方は違います。ある方は、杯に、ある方は、人が向かい合っているように見えると思います。みなさんには、、黒い部分と白い部分が両方見えているはずなのですが、どちらに注目しているかで、同じものでも、見え方が違うのです。ときどきRukaもこのルビンの杯を見たときと同じような感覚を持つことがあります。たとえば、ぼんやり、空を見上げているときなどがそうです。実際は雲が風に流されて動いているのに、空があまりにも青々としていると、その青さに目がとらわれて、青の部分が流れていっているように見えます。そして、一度そういう風に見てしまうと、なかなか白い部分に着目できず、ずっと青ばかりを追ってしまいます。

「ルビンの杯」にも同じようなことがいえます。白に着目した人に、「これは杯の絵だよ」といっても、「ああ、そういわれてみれば。」と納得できますが、人の顔だという概念を消すことはなかなかできません。人には、経験に即した見かたというものがあり、それを変えるのはなかなか難しいことなのです。経験に基づいた知識や思い込みや信念で知覚を判断するという恒常性(いつもかわらないという意味)が人の心の中には存在します。

カウンセリングの中で、このように、「これは杯でもあるのだよ。」といわれて、「ああ、そうか。」と頭では納得できても、なかなか、見方を変えれないのは、そういう性質が人にはあるからなのです。
ですから、カウンセリングを受けて、納得できれば、問題が解決すると考えるのは無理があると感じています。こんな考え方があったのかと「目からうろこ」と思ってから、実際にその考え方に移行するには、時間がかかります。人の顔に見えることをなんども見る経験をしたのですから、この図を杯に見えるようになるには、それ以上に、黒い部分に注目するような経験が必要なのです。

自分のものの見方の傾向を知り、なんども、別の角度からものを見る訓練を積んでいくことで、ネガティブな思いも、ポジティブな思いに変化させることは可能です。しかし、それには時間がかかることをご自身が認識されないと、カウンセリングを受けても、また同じ思考に陥ってしまいます。

電話でのカウンセリングには極力対応せず、メールカウンセリングを行っているのは、また同じような思考に戻りつつあるときに、カウンセリングでのやりとりを思い出していただくためです。
なんどもなんどもそうやって、「ああ、そうだった。そう考えることに決めたのだった。」と
思い起こしていただくことを繰り返していただくことで、思考の転換の経験が積まれます。
そのとき、初めてカウンセリングの効果はあったといえるのだと思います。

ご相談者の方の「ああ、そうですね。」という言葉にRukaは油断しません。
確かに、Rukaのいった言葉は理解していただけたのだとは思いますが、
それを生活に活かしていただいたときに、「これだったのだ。」と実際に体験していただける
ことを援助させていただくことまでがRukaのお仕事だと思っています。
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このところ、リーディングとカウンセリング業務が忙しくて、なかなか情報を更新する時間がありません。ですので、最近思ったことを書いてみようと思います。

ネットで活動するようになって、半年くらい経ちました。数を数えてみたら、ネットを通して、この半年だけでも、約100人の方とお付き合いいただいたことに気がつきました。Rukaはネットだけでこの半年、100の魂と会話させていただいたことになります。ふと、振り返って思います。このネットで知り合うことができた100の魂との会話が、つぎの101目の魂を救うスキルを与えてくれているのだということを。Rukaが救う魂は、この100の魂が救ってくれています。ですから、たとえ、Rukaに力がなくとも、100の魂をもって救えない魂はないのではないかとRukaは思っています。101人目の魂の方にお伝えします。尊い100の魂を受け取ってください。そして、102人目の魂にエールを送って差し上げてください。RukaとRukaと交流した魂からのお願いです。
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今日はRuka流のプチ断食についてお話したいと思います。断食というのはさまざまな宗教で行われており、歴史の古いもののようです。数日の断食で意識がすっきりして来たり、五感が敏感になったりするなどの覚醒効果があるといわれ、宗教的な断食、精神的な理由の断食は紀元前から人間の習慣として存在しているそうです。イスラム教のラマダーン月における断食がよく知られています。また、ユダヤ教・キリスト教にも定期的な断食があります。仏教では、煩悩を克服・滅却するために断食を行うことがあります。Rukaもこの断食をしています。Rukaの断食は、またくものを食べない断食ではなく、好きなものを断つという意味の断食なので、プチ断食とよんでいます。

Rukaの一番好きなものは「米」です。米は日本人の主食であり、脳に必要な糖分を運ぶ大切な食物です。糖尿病のカロリー制限のある食事療法でも、米を代表する炭水化物は摂取カロリーの60%として必ず摂らなければならない食品群としてあげられています。ですから、炭水化物をまったく取らない断食ではなく、ジャガイモやパンなどは時々食べます。Rukaはプチ断食をすることで、とても感覚が鋭くなります。自分に必要なものとそうでないものを感覚として捉えることができるようになります。普段は感じられない素材の持つ持ち味や、化学調味料を入れないと物足りないと感じる感覚を元にもどしてくれます。食べ物に対しての執着が出てきて、ほんとうに今の自分が求めているものでないとおなかがすいていても食べたくないと感じられることが一番のメリットだとおもっています。

不思議なことに、このプチ断食のときは、お米を無理に食べてもおいしいと感じることはありません。それだけ、かなり精神的に変化をもたらす断食ですので、体調のいいときや、仕事が詰まっていない時期でないとできません。宗教的な意味での断食や、精神統一としての断食は1〜数日で終了するものが多いのですが、Rukaの断食は1ヶ月から2ヶ月間行います。体と心がまったくのフラットになったとき、このプチ断食は終了です。その目安は、自然とお米が食べたいという欲求に基づいています。体重が5キロから10キロ近く落ちますが、プチ断食時に必要なブドウ糖は余分についたものから補われますので、体調を崩したことはありません。それだけ普段は、余分なものを摂っているということなのだと思います。プチ断食はそのときにもよりますが年に一回くらいの割合で行います。知り合いの栄養士さんにプチ断食のときのメニューをお見せしたところ、たんぱく質が足りないとおもわれる週の翌週には、自然とたんぱく質が多く含まれている食品を摂取しているといったような、栄養学的には問題のない食事となっているとのことでした。

一番好きなものを断つことによって、自分の体と心が本当に欲するものを摂るこのプチ断食。決してダイエット目的で実施しているのではありません。その人によって必要な栄養の質は異なります。医学的な根拠はないRuka独自の方法ですので、ご参考になさる方は自己責任でお願いしますね。(笑)
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きょうは「許す」ということについて考えてみたいと思います。「〜したけれどわたしはあなたを許す。」「〜したからわたしはあなたを許せない。」という言葉を相手に言ったり心の中でおもったりすることはありませんか?これは相手のした行為、そして、その行為をするに至った心理について、それを自分が許す・許さないという意味です。Rukaもよく、パートナーに対して、そして、子どもに対して、「今度やったら、もう許さないから!」ということがあります。よく、許しということをテーマにして宗教的に考えると、「許す・許さないという権限を持っているのは神様だけである。人である私たちは、人を裁くことはできない。」といったことを聞いたことがあります。なるほどなと思う気持ちもないわけではありませんが、そもそも、許しの感情は人間のこころの中にあります。人は常に心の中で、人を許したり許さなかったりしているのです。ですから、この神様だけの特権という許しについては、Rukaはあまり考えたことはありません。Rukaもよく許さないと思ったあとで思うのですが、これは、相手が許せないのではなくて、「相手を許す自分を自分が受け入れられない(自分を許せない)のではないか」ということなのではないだろうかと思います。相手を許すと、自分の信念や価値観を曲げてしまうことになります。許すというのは他人を許すことではありません。自分の価値観を相手の価値観に合わせて曲げることを自らが許すという行為なのです。
 許しの得意な人がいます。こだわりのない人です。そこに価値観を置かない、もしくは、人の価値観はそれぞれであることを認めることができ、自分の価値観は人に押し付けられるものではないことだということを知っている人です。そういう人は、人を許しますし、自分を許すのが得意です。時にそんなひとは、逃げのうまい人だといわれることがあります。でもそんな人が逃げないときがあります。それは、自分の価値観を完全否定されたときです。人を許すのも、自分を許してもらいたいがゆえの許しであったりする。人を許すことで、人はなぜか楽になれます。人を自由にすると、自分も自由になれます。「許し」とは本来、自分のためにあるのだとRukaは思うのです。
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きょうは、スピリチュアルの名詞であるスピリチュアリティ(霊性)についてお話したいと思います。スピリチュアリティの日本語訳は「霊性」が定説ですが、これもまだ、議論のさなかにあり、まだ確定的な定義ではないようです。しかし、霊性と聞いて、人々はいくつかの定義を考えつくことでしょう。今の次元と他の次元を結びつけて他の次元とコンタクトをとること、「霊」の文字から、死者との交流を図ったり、虫の知らせなどのいわゆる第6感と呼ばれるものをイメージする方もいらっしゃることでしょう。また、医療の現場では、スピリチュアル・ペインといって、「どうしてわたしがこんな病気に?」というような、社会的な役割が果たせないことの苦しみや身体的な苦痛からくる精神的なストレスとは区別して考えなければならない心の痛みとして定義付けられています。

ShellBenasが考えるスピリチュアリティの根源は、「魂の叫び」です。
ひとは苦しいときにスピリチュアルを意識します。「幸せとはなんだろう?」「なぜ自分が?」「自分の生まれてきた意味を知りたい。」自分に価値を見出そうとする、この魂の叫びは人間だけが持つものだといわれています。命あって生まれてきたものは必ず終わりがプログラムされています。「プログラムされた終わり」とはいろいろな意味があります。人生の終わりである「死」はその一番大きなものです。そして、人生の中で繰り返される、そのひとにとっては魂を引き裂かれるような別離も、その一つだといえます。そして、それを受け入れるために、ひとはこの苦しみに理由をつけるのです。魂の叫びとは「なせ?」の連続だといえるでしょう。

ご自分の魂の叫びをちゃんと捉えられている方には、自己治癒力があります。「なぜ、自分がそんなことを考えるのか」「なぜ、自分はそれを望んでいるのか?」そして、「なぜ、こんなに哀しいのか?」。悩みぬいて出した答えは、癒しの力を持っています。自分の気持ちを他者に受け止めてもらうことが癒しになるのではなく、自分自身で受け止められることが癒しにつながるのだということに気づかれるのです。ShellBeanではスピリチュアリティとは、この魂の叫びとその回復過程を総称したものであると考え、その回復過程を助けることを目標としています。
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きょうは、昨日に引き続きスピリチュアルについてのお話です。感覚には閾値というものがあるといったお話をしました。刺激が大きすぎても、そして逆に刺激が小さすぎても感覚として感じられないといったお話です。この閾値を利用して、さまざまなものが開発されていることをみなさんはご存知でしょうか?イヌやイルカしか聞こえない周波数の音を出すことで、それらの動物の行動をコントロールする商品や人に害を及ぼす種類のねずみが不快と感じる周波数の音を出すことによって、その場所からねずみを遠のけるものなどもその一種です。確かに存在するけれども目には見えない不可視光線であるX線や赤外線などの装置も、ひとの視覚という感覚には捉えられないものを利用しているものです。携帯電話の電波やテレビなどの電波もそうですよね。こうやって、わたしたちの身の回りには、目に見えないもの、感覚として捉えられないものがたくさん存在しています。これらを発する装置があるのですから、それを捉える装置ももちろんたくさん存在しています。予知的な、もしくは、死者との交信をすることなどのスピリチュアルな体験をすることを、よく、「あの人は霊感がある。」「霊媒師」などいうことがありますが、その人は生まれつき、もしくは、その感覚を育てる環境が整っている状態で育ってきたなどの素因で、ある特定の感覚が生理的な人の感覚機能の閾値を越えた部分まで察知できる人のことを言うのだと思います。

日本には、「察し」の文化があるといわれています。「察し」というのは、「いわなくともわかってくれるだろう。」「言われずとも察すること」が粋だという文化です。スピリチュアルな意味での感覚は、この「察し」にとてもよく似ていると思います。そういった訓練を生活の中でしているので、目に見えない発信しているなにかを察する能力は、特に日本人は優れているのではないかと思っています。特にスピリチュアルに関心を持つ人は、実のところ、「察し」の能力がある人なのだとRukaは感じています。
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久しぶりに、スピリチュアルについて考えたいと思います。スピリチュアルという言葉には、さまざまな定義があります。それは、スピリチュアルが目に見えないものだからです。誰も見たことがないものを、なんと定義するかは、その人の考え方に依存します。スピリチュアルという言葉を、「不思議なこと」と定義する人もいるかもしれませんし、占いや予知、死者との交信をしたり、宇宙との交信をすることがスピリチュアルと考える人もいます。そのひとの声にならないこころの叫びととらえる人もいます。スピリチュアルを手に取り出して、「はい、これがスピリチュアルです。」と見せて説明できないところが、スピリチュアルを謎めいたものにし、そして、特別な人だけがもつ能力として取り扱われることがあるようです。Rukaはスピリチュアルとは、占いでもなく、予知でもなく、そして特別な人間の周りにだけ起こっているものではなく、誰もが感じる可能性のある感覚であると考えています。
 
 閾値という言葉があります。これは、人の感覚は、刺激が小さすぎても、逆に大きすぎても感じることができないということを表わす言葉です。世間でスピリチュアルといわれているな出来事は、すべての人のそばで常に起こっているのですが、それを感じる閾値の幅が広い、狭いの個人差が、偶然の一致やシンクロなどのを感じやすい、感じにくいなどの差や、何かが見える、見えない、波動を感じる・感じないの違いに表現されるのではないかと思っています。誰のそばでも起こっている説明のつかない不思議な出来事を、「自分だけが感じている。」そう思う感覚が、一番スピリチュアルな生き方からはずれていきます。神様に選ばれた人などいません。そして、それと同時に、神に見捨てられる人もいません。

「スピリチュアルな出来事は、すべての人の周りで同じくらいの頻度で起こっている。」
それがRukaのスピリチュアルな出来事に対する考え方です。
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みなさま、お忙しい年末をお過ごしのことと思います。Rukaのお仕事もひと段落して、今日から家の大掃除です。どうして、年末ってお掃除をするのでしょうね。新しい年を気持ちよく迎えたい、今年の垢は今年のうちにとってさっぱりしたい。年末年始は、文化的に強制的脱皮を図るときだともいえると思います。こころの強制的脱皮を図っておられる方もおられるようで、12月にはいると、リーディング・カウンセリングの依頼が倍に膨らむような感じを受けます。年末にお申し込みになられた方で、年内にお受けできなかった方申し訳ありません。この場を借りて、お詫び申し上げます。

いただいたお札を集めて神様やお不動様にお返しする時期がきました。
一年間のご加護に感謝しつつ、より多くの方を救う力を授けてもらえるよう、
今年もお願いに参ります。いまは、雑巾片手に家の中を走り回るRukaが転ばないように、
見守ってくださいね。(笑)

年始に天然石サイトのリニューアルを計画しています。
年末に仕入れたたくさんのパワフルな天然石をご紹介することができそうです。
楽しみになさってください。^^

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 スピリチュアルとは「霊性」と訳されることが多いため、スピリチュアルという言葉自体に、いわゆる亡くなった方や生きている方の霊の存在や霊障、ある特定の人だけが感じられる第六感の意味を感じられている方が多いのではないでしょうか?そういった解釈もたしかに存在しますが、Rukaの考えるスピリチュアルというのは、魂の言葉です。この言葉は、将来を語るものではなく、過去を語る言葉でもありません。
 スピリチュアルの叫びとは、ここに存在する「わたし」への意味を問うことです。「私は誰なのか?」「わたしは何のために生まれてきたのか?」「わたしはなぜ、こんなことに苦しむのか?」といった、心の叫びです。この心の叫びは、人間特有のものと考えられています。
 動物や植物は、自分がなぜ生まれて、なぜ、死んでいくのかについて悩まされることはありません。今ここに存在しているという事実だけがすべてであり、次の世代への自然の摂理にかなう生殖行為を行い、そして、命絶えていきます。その生き方に迷いはありません。自分というものに価値を見出そうとする、いわゆる「自分探しの旅」がすなわち、スピリチュアルな心の叫びなのです。
 ありのままを受け入れることができる人は、スピリチュアルという言葉に興味を示しません。ご自分のスピリチュアルに向き合うというのは、自分の存在価値を見出そうとするがゆえの葛藤と向き合うことでもあるのです。
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人の波動が人に移るのを感じることがあります。よく、リーディングした後に起こるのですが、ご相談者様の波動がRukaに一時的に移るのです。先日対面でお会いした方は、ホワイトバッファローという石と波動があう方がいらっしゃいました。それをお話しすると、じつは、その方はパワーストーンに興味がおありで、よく皆さんがもたれている水晶などのメジャーな石より、ホワイトバッファローのようなマイナーな石が好きだといわれ、アクセサリーを見せてくださいました。それからです。Rukaが石を見に行くと、ホワイトバッファローに目がいってしょうがないのです。とうとう、ホワイトバッファローの石を購入してしまいました。ホワイトバッファローは、インディアンが名付けた石の名前で、白いバッファローを見つけるくらい、「珍しい石」という意味です。色も透明度が低く、白地に黒の縞模様が入っています。Rukaは、その方に会わなければ、ホワイトバッファローを手元におきたいとは思わなかったでしょう。そのようなことが、Rukaだけでなく、さまざまなところで起こっています。一緒に暮らされているご家族の波動を受けて、その方の波動が別の波動に左右されることがあります。そういった場合、ご家族がお持ちになるのとは似ている波動でも、別な石をお持ちになることで、ご自分の波動もいかしたまま、ご家族のいい波動の影響も得られます。このように波動は移るものなので、気をつけないといけないケースもあります。よい波動かどうかは、たいていわかります。悪い雰囲気の場所には近づかない、自分に合わない人とは、距離を置く。石がお好きな方でも、妙に惹かれる石とは、良くも悪くも影響を及ぼそうとしている波動を持っていますから、買われるときは、慎重に購入してください。
ぐらぐら・ぎらぎらと気持ちが妙に騒ぐ石は避けたほうが無難です。
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いつも不思議におもうことがあります。カウンセリングを受けられるご相談者様が、Rukaのカウンセリングを受けはじめて、前進されようとするとき、いつも、その障害となる現象が起こります。それはご相談者様の心の中の中に起こる心の反発であったり、他人からの妨害だったり、現象はさまざまです。今の状況は、ご相談者様にとっては、決していいものではないのですが、このままの状態を保とうとする何かの力が働いているのを感じます。できるだけ、その反動に負けないようにRukaはご相談者に支援していますが、この反動はとても甘い誘惑でもあります。その反動を突破したとき、「たしかに、洞窟の中にいたのに、一筋の光が見えてきたなあとおもったら、あっという間に目の前が開けたような感じがした。」と、よくご相談者様はおっしゃいます。スピリチュアルに忠実な悩みは、悩まれたら悩まれただけのご褒美があります。逆にスピリチュアルに反する悩みは、悩んでも悩んでも先が見えないことが多いのです。「苦労は買ってでもしろ。」と昔の人はいいましたが、それは、価値のあるものに対してだけに値する言葉です。ご自分の悩みは、ご自分が悩まれる価値のあるものかどうかを見極めることが大切です。そして、「変化を受け入れる勇気」。これが一番大切なもののように感じています。
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今回はリーディングに際して、Rukaは返答に困った事例をご紹介します。「自分はある宗教に熱中している。そのご本尊が自分の背後にいないのはおかしい。」というお話でした。大変困りました。ご自身が熱心に信仰しているのはそのご本尊様がいつもそばにいてくれて、守っていてくれるからだというのです。「それでは、おそばにいないとわかったら、あなたは信仰をやめますか?」と尋ねると、答えは「NO」です。「そばにいないなら、おそばに来て下さるように祈るだけです。それに仲間もいますし。」とおっしゃいました。宗教をもつことの意義はここにあるのだなとRukaは思いました。癌の告知をするかしないかについての問題を考えるにあたって、まわりのサポートがあるかないかと同時に、宗教をお持ちかそうでないかを問題にすることがあります。宗教をお持ちの方は、ある意味、社会的サポートがひとつあるのと同じことになります。「ご本尊様がついてるからだいじょうぶ。」と思えるひとは、ある意味強い意志がおありになる方です。これを飲めば、元気になれると、健康食品を毎日きちんと飲まれる方、これもまた、同じ理由で強い意志がおありの方です。「信じる」力というのは、人をいちばんサポートしてくれるようです。
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きのう車を運転しながらラジオを聞いていたら、こんな話を聞きました。「人(ひと)の為(ため)と書いて、偽(にせ)と読む。」奥が深い話です。悩み相談でも、ダイレクトに自分のために悩みを解決したいというひとは、解決もはやいけれど、他人の悩みを自分の悩みとして解決しようとするひとは、なかなか難しいとRukaは感じています。その人が頼みもしないのに、たとえば、自分の職場の誰かがこまっているから、私が何とかしてあげるという考えのなかには、自分のリーダーシップを発揮したい、自分を誰かに認めさせたいという欲望が根底にあります。そういった「偽物」はご自身は気付かれなくとも「偽物」の表情をしています。問題解決のためにいろいろ思案している姿は、ぎらぎらしており、その困った人が自分自身で解決してしまったら、その相談相手は、面白くないといった表情をします。自分の欲求を吐き出す場所がなくなった「偽物」は、いいひとを演じていただけに、こんどは自分の欲求の吐け口に困ることになるのです。自分を認めてもらいたいという欲求がいけないのではありません。その欲求を素直にご自身が認めて、その願いをかなえるにはどうしたらいいのかを純粋にそしてシンプルに悩むことがご自分のスピリチュアルに忠実な生き方なのです。人のためでなく自分のために悩んでください。
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あなたはいわゆる「神頼み」のお願い事をする時にどこに行かれますか?
なんらしかの宗教をお持ちの方は、その宗教に関する場所に出向かれることでしょう。無宗教の方はご先祖様に手を合わせ、仏様に祈る方、近所の神社やその願い事の種類によって強みのある(縁のある)ところにいって、お札をもらってこられる方、さまざまなお願いの仕方があるでしょう。ひとの「念」が願いをかなえるといった考え方からすると、その方がお願いすることに集中できる場所であれば、どこであろうと願いをかなえてくれるといえます。しかし、場所と祭られている神様やご本尊によって、その方との相性というものがあるようです。それはその方と縁のある場所や神様だったりもしますし、その方の念の質によっても左右されます。Rukaの場合、この能力を授かった母親の実家の宗教は神道で、母も神社と縁が深いひとです。母方の田舎に帰ると、ときどき神主さんが家に来ていて、Rukaは幼い頃から神主さんとお話をしたり、祝詞をあげる経験がありました。だから神社と縁が深いのかとおもいきや、実は、わたしの願いをかなえてくれるところは、神社ではなく、お不動さまです。お不動さまは仏道です。お不動さまを祭られている寺院では、護摩だきというのが行われています。この護摩だきというのは、ひとの煩悩(欲望)を木のお札にみなし、そのお札を霊験あらたかなお不動様の知恵で焼き尽くすことで、その願いを浄化し、煩悩ではなく、清らかな願いとして受け入れてもらうというものです。Rukaのお願いはいつもお不動さまがききいれてくれます。そう考えると、Rukaの願いは煩悩以外の何ものでもないのかもしれないと少し反省したりもします。
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神聖な場所があります。たとえば、神社・教会・寺院。自然の中にも神聖な場所があります。神聖な場所とは、ご自分にとって、息をすると空気が澄んでいてすがすがしさを感じ、心が洗われるように感じられる場所です。神聖な場所はそこに神様いるからだとはRukaは思いません。人によって、信仰している神様は違うし、同じ神聖な場所でも人によってはおなじように感じているとはいえないからです。神聖な場所が神聖であるのには理由があります。神聖な場所にはひとの念が込められています。ひとが集まり、何かをお願いしたり祈ったり、許しを乞いたりします。その場所でたくさんの人がそれぞれの思いを託していく場所だから神聖な場所になるのです。神様を祭っていないところでも、その土地の住民に大事にされている樹や祠も神聖な場所です。神聖な場所にいくと、Rukaはひとの様々な念を感じます。いくつもの念が集まると、場を浄化することができるほど、ひとの念というのはエネルギーがあるものなのだと感じています。


大事な物をうっかり失くしてしまったことはありませんか?Rukaはしょっちゅう失くします。(笑)このコラムでは、大事な失くし物についてのお話をしたいと思います。まず、大事な物を失くした時、あなたは必死になって探しますか?大事な物と言っても、明日提出しなければならない書類だったり、人からお借りしたものは、どうしたって探し出さねばなりません。しかし、それが、あなたの大事にしているアクセサリーだったり、いつもいっしょにいるものだったりしたら、探さないでください。あなたといつも一緒にいる大事なものは危険な出来事やいまわしい出来事から、あなたを遠ざけるためにエネルギーを使っている真っ最中です。ある程度探したら、あまり執着せず、身代りに頑張ってくれているものに感謝の意をあらわしましょう。事が遠ざかった暁には、あなたの元に帰ってきます。もし、帰ってこないとしたら、それは、あなたのためにエネルギーを使い果たして土に帰ってしまったと考えてください。Rukaはこういった不思議な失くしものがたくさんあります。Rukaが車で事故を起こしてしまった時のことです。カバンの中にいれていた印鑑がなくなってしまったのです。事故の寸前にはたしかにあったのを確認していましたが、事故の直後、カバンの中を見るとその印鑑がないのです。Rukaは、相手の車が2回転するほどすごい衝撃でぶつかったのですが、Ruka自身はけがひとつ負わず、相手の方も打撲だけで済みました。そして、事故の補償問題がすべて終わった時、その印鑑はまたカバンのいつもの場所でみつかりました。今振り返ってみると、用もないのに印鑑を事故の前に確認したのはRukaの虫の知らせだったのでしょうか。こういった経験をRukaは何度もしています。飾り物の鎖が落ちた時もそうです。「Rukaの身代りになってくれてありがとう。」と念じた後、水と荒塩で清めて捨てます。よく、お金を拾う人がいますが、これもいけません。お金には、ひとの念が移っています。そのお金を落とした人の悪い運も拾ってしまうことになります。善意から警察に届けようと拾われた方は、そのあと、流水で手をよく洗って下さい。
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除霊についてお話したいと思います。たまに、「ほかの霊能者に除霊の必要があると言われて、高額な料金を請求されたので、Rukaさんのところで、安く除霊をしてもらえないか。」という旨のお話を依頼されることがあります。除霊するからには、その霊はその人にとって、悪いものだという定義付けで話がなされているようです。Rukaは、相談者にまつわる霊について、あまり、除霊の必要性を感じていません。よく悩み事が、霊のせいだといわれる方もいるようですが、いわゆる霊障のケースをみることはめったにないことを、知ってください。相談者にまつわる霊が、何かのメッセージを発するために、相談者になにかを仕掛けてくることはありますが、それは障りでも祟りでもなく、その方にとって必要なメッセージを送っているにすぎないのです。
また、ある方から恨みを買って、強い念を送られている方もいるかもしれません。でも、それは、その相談者がその方に恨まれるようなことをした可能性が高いのです。相手の念は相談者のこころのあり方かけられることになるのです。念を取り除いても、また念をかけられれば、同じことです。念をかけられない、簡単にいえば、ひとの恨みを買うような行いを改めないと、いわゆる除霊というものはできないのです。前世での恨みや、祖先の恨みの念にかかっているといわれる人もいるかもしれませんが、その当事者、その時代の相談者そのものにかかる念は強いかもしれませんが、今のあなたにかけられている念とはごく弱いものか、もしくは「無」です。恨まれた前世や祖先と同じ道を歩もうとしているから、念が残るのです。それは、相談者の生き方の改善をすれば、解決します。場の浄化、気の浄化はそのひとの周りを清らかにすることができるので、こころのあり方に及ぼす影響が多いため、行っていますが、Rukaは除霊そのものを必要と感じていないので、いたしません。
しかし、そういった考え方になかなか移行できない方への援助はカウンセリングを通して行っています。
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運命の大車輪がまわる音を聞いたことがありますか?Rukaはこの大車輪の音を聞くことができます。この大車輪とは、木でできた車輪に周囲に真鍮のくさびが打ち込まれています。見上げるようにとても大きい水車です。大きいあまりに、普段はあまり動くことがない大車輪ですが、それの一か所に大量の水がたまり、あるとき突然、ごごごごうおおおと音をたてて回り始めるのです。そして、その大車輪には不思議なことがひとつあります。水がたまる場所は左側にあるのに、大車輪はいつも右まわりに動き出します。理論的には不可能な回り方です。しかし、左まわりに動くのをRukaは見たことはありません。そう考えると、水が蓄積する左側は過去を、回る方向の右側は未来を示しているのです。Rukaは未来は過去の積み重ねであるということをこの大車輪からも感じます。
運命の大車輪が回るのを見た時はRukaはめまいがします。めまいがするほどのものすごいエネルギーが大車輪にかかった時、人は変換期を迎えます。人はその大車輪の上にしがみついています。目をつぶったまま、ものすいごい水しぶきをかぶりながら、大車輪にしがみつくさまは、約10年前に見た映画の「タイタニック」さながらです。でもだいじょうぶ。たいていの人は気がついたときにはほっとした表情をしているのですから。この大車輪は、いつも一回転するとは限りません。たいてい、1/4つづ回転するのです。この大車輪はRuka自身の転換期によく見ることができます。相談者から相談を受けた時にも、大車輪が回ることもあります。大車輪が回るときは、とても精神力と体力を必要とします。なにもないときは、この大車輪が動く前の前触れだと思います。前触れが多いほど、大車輪のエネルギーは大きなものです。大車輪が回る前には、かならず、大車輪がきしむ音がします。Rukaはその大車輪がきしむ音をキャッチして、大車輪が回る前にご自身ができることは何かをお伝えするようにしています。
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簡単にできるリフレッシュ方法をお伝えします。それは爪を切ることです。「爪の垢を煎じて飲ませたい。」とよくいいます。行いのいい手本となる人の爪にたまった垢をいわゆる愚かものに飲ませて、その愚かな行いをただしたいという意味で使われます。特に手は生活に一番つかう部位であり、その人の生活の多くがこの手によって行われています。足の爪も、体を支える足ですから、手足の爪はその人の生き方や性質をよく知っています。日常生活でついたしがらみや悪い方向への考えはその先についている爪を切って整えることで、是正することができます。いわゆる、いままでの厄を落とすことができると考えてください。ファッションで、爪を長く伸ばしている人もいるでしょう。とくに、そんなひとが思い切って爪を切ると、運気の転換を招くことができます。爪が伸びてきたなあと気になってきた時は、運気を転換したいなあと思う心からのメッセージでもあります。
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音のエネルギーについて考えてみます。音にはいろいろな種類があります。雨だれの音や波の音、鳥のさえずり、はたまたなにかをたたく音や何かを引きずるような音。なにも音がしない静寂のなかにも、しーんという音が私達の耳の中ですることがあります。音はある一定の旋律を伴うと音楽を作ります。今日はその音楽についてです。人が作ったものですから、音楽にはひとの魂が宿っています。それを意識してキャッチするかしないかはその受け手の感受性に依存します。けれども、意識しなくとも、ひとは自分の快・不快の感覚で音楽から何かを感じているようです。こういうお話を聞いたことがあります。あるお店のオーナーが、自分のお店の駐車場で不良たちが集いを開くようになって困っていました。オーナーはあるときひらめきました。ある作戦でお店の駐車場に集っていた不良たちを退治したというのです。その方法とは、駐車場にクラッシックの音楽をながすという方法でした。彼らにはクラッシックの音楽は自分たちの魂に合わないものだったのでしょう。同じようなことを利用して、自分をリラックスさせる方法があります。よく、気分が沈んでいるときに元気が出るようにと、元気のいい音楽を聴く人がいますが、それは、効果的ではありません。人の魂は同化することを好みます。悲しい時や気分が落ち込んでいるときは、同じような雰囲気の音楽を選ぶことが大切なのです。悲しむ時は十分悲しむ。うれしい時はその嬉しい気分を十分味わう。そういう基準で音楽を選んでください。その時々の感情を十分に感じることが、魂の昇華に役立つのです。
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きのう小さいガジュマルの木を購入しました。この木にインスピレーションを感じたと同時に、とてもかわいかったので、どうしても家につれて帰りたかったのです。この木には赤い植木鉢が似合うなとおもって煉瓦よりちょっと赤めの鉢にいれてみました。夜は枕元にガジュマルの木をおいて眠りました。そうしたら、Rukaはその夜、子どもの夢を見ました。なぜか赤い色をしたおかっぱ髪の子どもの夢です。そのこどもがお風呂に入れられている場面で、その子どもがこれから着る着物をRukaが整えているという夢でした。その夢が気になって、ガジュマルという木について調べてみました。ガジュマルにはキムジナーという妖精が住んでいるといわれているそうです。この妖精は真っ赤な髪で子どもの姿をした妖精だそうです。Rukaが夢で見た子どもはキムジナーだったのかもしれません。子どもが着る着物を整えるという夢は、これからRukaがガジュマルの木と共に、その妖精の世話をするんだよという意味なんだとおもいました。
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今回はひとと水との縁についておはなしします。あなたはご自分の生まれた時のお天気をご存知ですか?生まれた場所や時間を知っている人は多いいけれど、天気まで知っている人は少ないのではと思います。もし、お母さんなどからお聞きになれる方は一度、聞いてみてください。生まれた日のお天気はその人の人生を左右するというジンクスがあります。フランス革命の英雄「ナポレオン」は嵐の日に生まれたといいます。ナポレオンはフランス革命を成功させ、英雄となりましたが、ワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナ島に幽閉され、そこで人生の幕を閉じています。まさに「嵐」のような人生であったことは多くの方がご存じでしょう。
天からの恵みの水「雨」に縁のある人がいます。「雨女」「雨男」なるものがそれです。その人が出かけようとするとなぜか雨になる。そういう人っていませんか?なんだかついていないように感じますがそういうひとは水ととても深い縁があります。水のエネルギーをたくさん得られる人です。いわゆる霊感が強いといわれる人は水のエネルギーをたくさん持っている人が多いです。水は浄化とともに感受性の豊かさをも司っています。
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水の浄化エネルギーを暮らしに生かすアドバイスをお伝えします。
トイレの清浄感や浄化は水が流れることによっておこります。よく、節水のためにあまり水を流さないようにしているご家庭を見かけますが、トイレなどの汚物の出口であるところこそ、勢いのある水の動きが必要なのです。節水はお金の節約や水そのものの資源の節約にはいいですが、Rukaはあまりお勧めしていません。
洗濯などの汚物を洗い流す作業にも水のエネルギーは必要です。洗剤で汚れは落ちますが、浄化は水がするものです。よく浄化された衣類を身にまとっていると、一日中気持ちよく過ごせます。
節水機能の付いた洗濯機や、お風呂の残り湯で洗濯する方法もよく行われている方法ですが、洋服の浄化のためにはお勧めできません。お風呂の残り湯は、からだを浄化するために使われた水です。水は疲れています。さらに、一晩中その疲れて汚れたままよどんでいた水だということに敏感になってください。その水を動かしたところで、その水には新たな何かを浄化できるエネルギーはありません。節約をして、お金がいくらばかりかたまっても、あなた自身が気持よく過ごせなければ意味がないのです。
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水のエネルギーについていくつかお話しをしましたが、水のエネルギーはわたしたちにとってどんな役割を果たしてくれるのでしょうか?水のエネルギーの恩恵は「浄化」です。
清潔主義なるものがはやり、人がとても菌やウイルスに敏感になっています。同じ価格で除菌できる製品とできない商品があったら、あなたはどちらを買いますか?
除菌製品は薬品で科学的に菌の数を減らす商品です。少し前までは、病院でも消毒薬や除菌製剤入りの石鹸などが置かれていました。いまではその除菌製剤入りの石鹸は、人体に影響のある科学物質によって手荒れが起こり、その手荒れた傷から感染を起こすリスクが高くなっていることがわかっています。消毒薬は菌の数を減らすために、菌を弱らせ殺すためのものですが、菌も人と同じタンパク質を含む細胞からできています。消毒薬にその細胞を破壊するための化学物質が含まれているということは、同じ細胞をもつ人間の細胞も破壊してしまうことになります。いまでは、ケガをした時に消毒薬を使わない病院が増えてきました。治りかかったまだ弱いわたしたちの大事な細胞を殺してしまい、かえって治りが遅くなることがわかったからです。病気にかからないための予防の一番は、流水での手洗いだということは、医療関係者はよく知っています。
こうやって、水のエネルギーはさまざまなものの浄化に役立っています。
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では、そういう場所にいかないと、わたしたちは水のエネルギーに触れることはできないのでしょうか?そういった環境がそばにある人はいいですが、そうでない人もいます。わざわざ、水のエネルギ―を取り込むのに旅行に行かないと取り込めないのでは意味がありません。水には動きがあるからエネルギーがあるといいました。水にエネルギーを与えるには、水を動かせばいいのです。ためしに、ボトルに入れた水を振ってみてください。振ったその直後に飲んだ水は振る前の水と違うのがお分かりになるでしょうか?お風呂に入るときにも、ただ、ゆったりとつかるだけではなく、水を動かしてみてください。一番お風呂の中の水を動かすのは自分自身がお風呂の中に潜ることです。日常生活の中で、Rukaが一番水のエネルギーを得られる時です。

※お風呂に潜っておぼれる可能性がある方はしないでください。
 
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エネルギーの失われた水の中で暮らしているわたしたちは、もう、水のエネルギーを取り込むことはできないのでしょうか?水にエネルギーを与える方法をRukaは知っています。水は動くことができます。動きのある水に接することでわたしたちは水のエネルギーを吸収することができます。滝の流れ・川の流れ・海の波・噴水に接する機会を作ってください。水は止めることなく動いています。この水には大きなエネルギーがあります。穏やかな流れや波には静的エネルギーが、急な流れや激しい波には動的エネルギーがあります。川の濁流を見いると、自分の中の何かがぐらぐらと沸き起こってくるのを感じることができます。これは、動いている水にエネルギーがあるからです。そのエネルギーを感受して動揺するする心の動きなのです。
滝はマイナスイオンで気持ちよくなるものだという人がいますが、Rukaはそうではないと感じています。滝は水が激しく動いているからヒーリング作用があるのです。
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水の結晶の本が出版されています。水が結晶を作るときに投げかける言葉によって、結晶のでき方が違うというものです。美しい言葉を投げかけると美しい結晶が、乱暴で乱れた言葉を投げかけると乱れた結晶ができるというお話です。これは波動により結晶のでき方に違いがあるというのですが、この波動は言葉の波動であると考えられます。波動が水に伝わるということは、水にも受け皿となる感受性があるということです。いま、健康ブームで、ひとの体の70%ちかくを占める水の性質に関心が高まっています。水を消毒をするためのカルキを抜いたり、有害物質を除く浄水器がたくさん出回っています。研究所にあるような大がかりな装置がなくとも、自宅でイオンを操作して、水の電解質バランスまで調整できるものもでています。こうしてできた純粋な水をあなたは美味しいと感じますか?「味がしない」というのと、「美味しい」というのとでは意味合いが違います。ときどき、レストランなどで、Rukaはそういった水をもらって飲むことがありますが、美味しいと思ったことはありません。たしかに環境汚染によって含まれた有害な化学物資はないほうがいい。でも、作られた水にはエネルギーを感じないのです。いま、ひとの手がかかわらない水は湧水を除いて、存在しません。作られた水には微生物は存在できません。作られた水を摂取しても体が維持できる人間という生物はある意味、とてつもなく強い存在であるのだと思います。


参考文献:江本 勝 (2001) 水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ サンマーク出版
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霊感とは人のこころを感じることであるとわかったところで、霊感は人にとって必要なものなのかということについてもう一度考えてみたいと思います。「親のこころ子知らず」「ひとの気持ちも知らないで」など非人情的なことをいわれると、やはり人のこころを感じる能力は必要であると思えてきます。でも、これは、「こころは知ってはいるけれど、自分はそうしたいのさ」的な意味合いがとても強いと思われます。ひとのこころを察する能力は持っていてもその能力を使おうとしない、もしくは、見て見ぬふりの状態です。これはこれで一つの能力だとRukaは思います。自分の欲求を守るための能力です。人の気持ちをいつも考えていたら、自分の気持ちのもっていきどころがありません。相手もいつも同じように考えてくれたらハッピーですが、そうでないところが人間関係の難しさです。常にひとのこころが手に取るように見えていたらどうなるでしょうか?犯罪はなくなりますか?みな仲良く暮らせますか?この疑問を考えるときにRukaの頭には「知らぬが仏」の言葉がよぎります。Rukaもある人とお付き合いしていたときに、4年間もの長い間、嘘をつかれていた経験があります。その嘘はとても大きくて重大な嘘でした。その嘘を知った時にRukaは逆上しましたが、あとで思ったのです。嘘をつかれたことは腹立たしいけれど、その嘘のおかげで、わたしはその4年間楽しく暮らすことができたのだと。嘘を許すか許さないかの決断を迫られた時に、いきついたRukaの屁理屈ではありますが、その屁理屈にRukaはとても助けられました。リーディングの結果をお話して、「知らなければよかった」とおっしゃるかたもいらっしゃいます。幸せに暮らすためには、こころを感じる力はほどほどでよいのです。
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霊感がひとにとって必要なものかを突き止める前に、霊感とは何を意味するのかを調べてみました。(1)霊的なものを感ずる不思議な気持ち。インスピレーション。(2)神仏の不思議な感応。霊応。ふむふむ。では霊とはなんでしょうか?「霊=たましい」でした。そして、魂とは・・・と解読していったら、「こころ」にいきつきました。「そんな魂胆があったとは・・・」とよく言いますが、「こんたん」という言葉に魂が使われたいると知っていましたか?そもそも霊感とは、「こころを感じる」ことであって、見えるはずもないものが見えるとか、何か悪いことを思い起こすようなことを予言することではないようです。しかし、「こころ」というのは手にとって触れることも見ることもできません。だから、ある意味、ひとにとっては「こころ」は怖いものなのかもしれません。ひとの「こころを感じる」という行為(感覚)は誰もが意識せずに普段の生活でおこなっています。そう考えると、霊感は誰にでもあるものなのです。Rukaのリーディング能力とは、ひとのこころを感じるRukaの感覚アンテナの周波数を相手の周波数に合わせられることなのだと理解してください。